@article{oai:kansai-u.repo.nii.ac.jp:00002259, author = {ハン, ヒョンジュ and 金子, 祐樹}, journal = {周縁の文化交渉学シリーズ3 『陵墓からみた東アジア諸国の位相―朝鮮王陵とその周縁』}, month = {Dec}, note = {朝鮮王陵の研究は,風水地理学と美術史学などにおいて行われてきたが,国家儀礼 からのアプローチはほとんどなかった。そこで本稿では祭礼を対象に,朝鮮時代初期 における王陵祭祀の制度的整備と儀式,宗廟との差別性,そして陵幸の政治的意味な どに注目し,国家儀礼における王陵の位置づけについて考察した。  朝鮮王陵は,太祖の即位後,追尊された四代王と王妃,そして神懿王后の齊陵が造 営され,祭祀が施行されることに始まり,陵祭の整備は,実母である神懿王后韓氏の 齊日に太宗が行幸したことを受けて行われたが,太宗代における太祖の死亡を機に本 格化した。厚陵と獻陵が造営された世宗代には,祭祀の細部項目と拜陵儀が修正・補 完され,その内容は世宗の死後『世宗実録』五礼の凶礼条と吉礼条に収録され,部分 的な修正を経て『国朝五礼儀』に収録された。  王陵祭祀は,四孟月の時祭と朔望,俗節など多様であるが,これは当時の宗廟およ び原廟である文昭殿において施行されたものと同じであった。これは高麗時代からの 伝統と思われるが,中国にも類例が見られる。しかし高麗の陵祭が国家祀典の大祀に 組み込まれていたのに対し,朝鮮のそれは「俗祭」という大中小祀とは異なる体系に 属しており,また大祀に属する「宗廟」祭祀とも区別されていた。また陵祭が凶礼で あった中国とは異なり,王陵にかかわる儀式を凶礼と吉例に区分して組み込んだとい う独自性も見られる。  太祖~成宗にかけての100年間における国王の親祭は,宗廟に対しては41回に過ぎな かった反面,王陵や原廟(文昭殿)に対しては毎年2 ~ 5 回行われた。原廟はその後, 壬辰倭乱(秀吉の朝鮮侵略)の際に破壊されて復旧されず,王陵における四時祭も仁 祖代に廃止された。王陵祭祀はその後,俗節祭(臘日を除く)を中心に運営された。  朝鮮時代において,王が祭祀に直接参加した例は意外に多くなく,宗廟の場合でも おおよそ2 ~ 3 年に一回程度であったが,王陵の親祭は,毎年数回にわたって行われた。 累代の先王が集る昏殿よりも,肉身が安置された個々の陵に親近感を覚えたことや,俗祭であり儀式が簡略であったことなどがその背景にあろう。いっぽう荘厳な儀仗を 備えた陵幸は,都城を出て民に自分たちの「王」を知らしめる重要な政治行為であった。, 原著:ハンヒョンジュ 翻訳:金子祐樹}, pages = {27--44}, title = {朝鮮初期における王陵祭祀の整備と運営}, year = {2011} }