@article{oai:kansai-u.repo.nii.ac.jp:00001904, author = {徐, 興慶}, journal = {関西大学東西学術研究所紀要}, month = {Apr}, note = {阪谷朗廬(素、1822‒1881)は岡山(備中)川上郡九名村(現在岡山県小田郡美星町)の出身で、幕末の漢学者、儒学者、教育者として、また明治維新期の官吏として知られている。彼は七歳から陽明学者大塩平八郎(1793‒1837)の漢学塾「洗心洞」に入り、ついで江戸で同郷の朱子学者昌谷碩(精溪、1792-1858)に入門、十七歳になって儒学者の古賀侗庵(1788-1847)に師事し、のち広島藩の藩儒にも迎えられた。1853年、ペリー艦隊の「黑船」が来航した際、朗廬は岡山にて「興譲館」(興譲館高等學校前身)を創設し、漢学を普及しながら、洋学を兼修していた。幕末動乱期に、彼は開国論を主張し、議会主義、海軍充実を説く開明派であり、世界の共通言語が必要であることを唱えた。1862年に彼は長崎へ赴き、中国の知識人林雲逵(1828-1911)と筆談を行い、『林阪筆語』を残した。また、渋沢栄一(1840-1931)は朗廬に師事し、二人の間においては、詩文を交わすほか、姻戚関係まで結ばれた。  朗廬は1866年6 月(四十五歳)に第十五代將軍德川慶喜(1837-1913)に謁見し、のち「二条城」にて経書を講じた。1881年1 月に福沢諭吉(1835-1901)が設立した「交詢社」の「常議員」として選ばれ、「明六社」の一員となった。さらに陸軍省に務めた後、文部、司法などの要職を歴任したほか、「斯文会」の文学教授になり、東京学士会議員に選ばれた。日本に近代化において、朗廬は朱子学の学問から、日本天皇へ忠誠心そのものを育んだ。本報告の主旨は以下の焦点を当てる。⑴朗廬が受けた儒学教育及び彼が持つ儒学思想の特質とは、どのような関係があったのか、その伝統のある学問は明治社会にどんな影響をもたらしたのか。⑵朗廬と林雲逵の筆談は、どんな内容であったのか。⑶「白鹿洞掲示説」から見た朗廬の儒学観、西洋観を分析し、彼の「尊王攘夷説」や「開港論」の形成背景を検討する。}, pages = {13--14}, title = {阪谷朗廬の学問とその新思想の転化}, volume = {45}, year = {2012} }